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その比較は複雑・・・(ー_ー)!!

Y新聞では〔昭和時代〕というテーマで土曜日にシリーズで記載しています。今日はその15回目〔空腹、バラック、物価高

敗戦の1945年当時最も深刻だったのは食糧事情で、米や芋の配給量は一人一日分わずか300g、生存に必要なカロリーの半分にも届かないありさまで、餓死線上をさまよう人も少なくなかった、  と書かれています。

私の夫は当時13歳でそのただなかで何とか生き延びた一人です。食事の配給と云っても並んでやっと与えられたものはご飯粒がわずかに泳いでいるようなおかゆとも言えないようなものだったといっています。

私は田舎で暮らしていたので、酷いといっても戦火を受けた東京の酷さは知らず、ものの本や映画テレビドラマで当時の過酷な様子を知るだけです。 

食糧事情だけでも命がけで生きてきた夫、今でも決して食べ物には文句を言いません。好き嫌いが多く、好むものしか食べない私は見習わなければならない点があります。 

それはそれとして、たとえば食事中私が〔今日の肉じゃがちょっと味が薄かったようね。。。〕というと〔なに、戦時中のことを思えば上等なもんだよ。〕と。。。これ口癖なんですね。

台所へ立つ私への気遣いで云っているのは分りますが、戦争当時の酷い食料と比べられてもねぇ。。。(ー_ー)!!

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終戦当時の東京 

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日々のつぶやき」カテゴリの記事

コメント

戦時下、幼年生だった私は中島飛行機(今の富士重工)で働いていた叔父からの土産のバナナを生まれて初めて口にして”こんなにうまいもの、死ぬまでにもう一度食べたい”と心底思いました。
そして今、バナナは信じられないほど安い値段で店頭にあふれ、あの当時では、盆や正月、冠婚葬祭など特別な日でもなければ食べることのできないものを、その気になれば毎日でも食べることができます。
人は飽食の挙句の贅沢病を治すために医療費を払うありさまです。
戦後は遠くなりにけり、ですね。
あのころには想像できないほど豊かになりました。
なのに、出現したのは「衣食足りて礼節を知る」はずなのに「衣食足りて礼節を欠く」世相です。

投稿: 風花爺さん | 2014年6月15日 (日) 06時30分

風花爺さん様

日本の戦後は世界的にもまれな勢いで恐ろしい位の発展を見せました。一方では日本人が失くしたものこれも計り知れないものがあります。どちらがよかったのか・・・。人間が生きる上ではこのような社会的流動性〔人の心も含めて〕はむしろ自然なことなのかも知れないと思ったり・・・。
日本人は人間として発展途上国なのかもしれませんね。

私がバナナなるものをはじめて口にしたのは戦後2年ほどしてからだったと思います。美味とはまさにこのこと、生まれて初めてのカルチャーショックがバナナだったんですね〔苦笑〕
果物には程よい酸味があるものと思い込む頑なな私の味覚は現在バナナを受け付けません。


投稿: おキヨ | 2014年6月15日 (日) 12時06分

おキヨさん、こんばんは

私は戦後の生まれですから、配給などは知りません。配給があったと言う話も聞いた事がありませんでしたが、食糧事情が悪かった事は憶えています。しかし世界中の情報が即刻入って来る昨今で、間違いないと言えるのは、日本人の道徳や、心のあり様は世界一だと思っています。白馬の吊り橋を望む公園のサクランボは酸っぱかったですcoldsweats01

投稿: | 2014年6月15日 (日) 20時20分

岳様 こんばんは。

配給という意味さえ知らない人もいるのでは?
食糧事情も岳さんのお生まれになった頃はもうだいぶ楽にはなっていたと思いますよ。

そうそう、公衆道徳などは日本は世界に誇れるものでしょう。
あ、大出公園に行かれたんですね。サクラの木がありましたけどさくらんぼが成るんですかcherry
秋にまた行きますねwink

投稿: おキヨ | 2014年6月16日 (月) 00時21分

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